結果的プレミアム戦略
アメリカのオーケストラで、リスクを冒して最初に自主レーベルを立ち上げたティルソン・トーマス&サンフランシスコ交響楽団。
今だかつてないこだわりの先に見えたのは、“結果的プレミアム戦略”だった?
口コミのみの販促
このCDは自主レーベルなので、もちろん日本でのディストリビューターの東京エムプラスは販促していますが、それでもメジャーレーベルに比べればごく小規模。
またティルソン・トーマス&サンフランシスコ交響楽団は、ここ10年間来日していないので、メディアの露出もほとんどなし。
いきおい、口コミでしか伝播しません。
プレミアム戦略では、決してマス・マーケティングをかけたりしてはいけないそうですが、サンフランシスコ交響楽団は、はからずもそういう結果に。
好きな人はとことん好き
プレミアム商品は、誰にでも好かれるのではなく、熱狂的ファンに支えられているのだとか。
ティルソン・トーマス&サンフランシスコ交響楽団も、日本では今のところ限られてはいますが、「MTTのマーラー」の確たる支持者がいます。
そこにはいわゆるフォロワーはおらず、皆自分で判断した結果なので、支持は強固と言えるでしょう。
他方で、誰もが好きというわけではありません。
魂の叫びみたいな演奏こそがマーラーだという価値観に立てば、理が勝っているように聴こえるからでしょう。
ティルソン・トーマス&サンフランシスコ交響楽団は、例え100人でもいいから「このマーラーが最高」という人に聴いて欲しいという類の演奏だと思います。
安売りしない
サンフランシスコ交響楽団は、このCDを出すために支援者からの資金集めをしています。
ここからスタートしていることの意味は、レコード会社のように販売予想枚数から逆算して制作費が決まるとか、何がなんでも売るというスタンスとは違うということです。
おそらく彼らの資金計画の中で、販売による回収というのは、多くを期待されていないのでしょう。
その結果、値崩れしているCDの中にあって、価格はほぼ高止まりしたまま。
このことが逆に消費されるCDとは距離を置き、プレミアム商品たりうることになっているのです。
CDを買っただけでは体験できない
一方録音は、最高のクオリティでの再現ということにこだわった、非常に情報量の多いSACD(ハイブリッド)に仕上がっています。
結果、この情報量に対応するスペックを備えていないオーディオで再生すると、細かい表現を再現せずに全部を中間帯で再生してしまいます。そうなると演奏がきっちりしているだけに、平板でつまらなく聴こえる演奏でもあるという点は注意が必要です。
つまりCDのコンセプトが、何で聴いてもそれなりに聴こえるように作られている一般のものとは違うので、CDを買っても、どういう音楽を体験できるかはオーディオ次第なのです。
うちのオーディオは、10年以上かけて試行錯誤したシステムですが、それでもオーヲタ(オーディオ・ヲタク)の方のところのハイエンドで聴かせていただくと、「こんなに違う!」とびっくりします。
*これは「いいオーディオで聴いた方が、いい音がするに決まっている」レベルの話ではなく、どういう再現を前提としてCDを作りこんでいるかの構造的な問題です。もし「MTTのマーラー?ぜんぜんダメ〜」的発言をする方がいたら、その方の意見は尊重するとしても、どういうシステムで聴いたかは確認した方がいいかもしれません。念のため。
こんなことをやっているのはMTT&SFSだけ
そしてここがポイントなのですが、こんな一枚制作するのが大変なCDを作っているオーケストラは、ティルソン・トーマス&サンフランシスコ交響楽団以外には見かけないということ。
そこまでして伝えたい“ネタ”を持っているかという点と、仮に持っていたとして、マーケットが限定されるハイエンド仕様を選択するかという点、そしてそれを実行できるだけの経営力があるかという点で、困難を伴うからだと思います。
ティルソン・トーマスは、ロンドン響時代の90年代前半に評論家との対談で、これから技術が進歩すれば、ミュージシャンが(レコード会社の方針ではなく)自分で作りたいものを自ら作り、それを気に入ってくれた世界中の人に売ることができるような時代になるのではないか、と語っていましたが、10年後に本当に実現させたということでしょう。
地元密着とCD販売の関係
サンフランシスコ交響楽団がこうしたリスクを取ることができたのは、地元密着のライヴを活動の基本にしているからだと言えるでしょう。
ライヴのお客さんは、CDの値段が高いとか、ちゃんとしたオーディオが必要だとかにかかわらず、CD売上のベースとして機能してくれているのです。
なぜなら
- お客さんの中には、シンフォニーを下支えする“組織票”がかなりあり、そこでの支持はディスクの価格や仕様に左右されない。
- そこまで行かない“浮動票”も、コンサートで驚きのアンサンブルと客席の応援モードを体験させた後に、MTTのサイン会でもあれば買ってくれる。
- 彼らが仮にミニコンポで再生して70%の再現度だったとしても、ライヴの音を知っているので、適当に自己補完して聴いてくれる。
これらのベースなくしては、さすがにMTTも思い切れなかったのではないでしょうか。
観客の果たす役割
またライヴのお客さんは、ミュージシャンにとっての大きな励みにもなっています。
録音の日は、ティルソン・トーマスがマイクを持って登場。最初にお客さんに「録音するので、ご協力を」とお願いするのだそう。お客さんも、このプロジェクトのことをよくわかっているので、客席にも並々ならぬ緊張と、「音を立ててはいけない」プレッシャーがかかるのだとか。
皆が「がんばれ〜」と祈る中で、あの演奏は生まれるのです。
はじめは素人だった
またサンフランシスコ交響楽団が、自主レーベルを始めたとき、彼らはレコード・ビジネスの素人だったため、うまく計画どおりに運ばないことも多く、初回出荷枚数を300枚しか出せなかったそうです。
このときは、さすがに方々から先行き不安の声が上がったそう。
その後、うまくことが運んで本当に良かった。
結果としてオーケストラのブランド構築
サンフランシスコ交響楽団にプレミアム戦略なんて意図はさらさらなく、MTTの主張に全員がつき合わされただけなのでしょうが、結果としてプレミアム戦略になっているところが面白い。
彼らの結果的プレミアム商品は、そのメッセージをしっかり受け取った人々からは、大きな反響がありました。
彼らのような品質(演奏・録音とも)に確実に反応する顧客がいたのです。
例えマーケットが限られようとも、ハイエンドを徹底して貫いたことによって、このCDは全米や海外でのMTT&SFSファン獲得と、オーケストラのブランド構築に寄与しました。
このブランド効果や広報面での役割などを考えれば、彼らはマーラーで投資の何倍ものリターンを得たのではないでしょうか。皆と同じ選択をせずに、チャレンジしたからこその成果でしょう。
彼らのマーラーから得られる教訓は、つまるところ、リスク取らずして成功なしということだと思います。