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クラシック音楽を聴くときに気が軽くなる本
外山滋比古氏の「思考の整理学」をヒントに、人間は同じAという音楽を聴いても、Aとは異なるA’ になっている。一人ひとりの聴いている音楽が違う、という話を書きました。
外山氏の表現の受け手の多様性という視点は、「異本論」という本で詳しく考察されているとのことだったので、早速読んでみました。
この本の視点は要するに、
古典作品とは、作者が生み出したものを源泉とすると、無数の読者に読まれることで、時間と空間の作用を受けながら生々流転していく河の流れのようなものであり、作者の原形だけではなく、その後の変化も含め、それらすべてを包括したものが作品なのだ、というもの。
作者が作った源泉に遡ることで作品をとらえようとするのではなく、豊かな下流に立って眺めようという見方。
これをクラシック音楽に置き換えてみると、
作曲者が書いた作品、時間と空間を経る中で無数に現れた演奏、そしてそれらを聴いた無数の聴き手が受け取ったものの全てを包括したものをその作品と考える、ということになります。
そう考えると、作品は作曲家が世に出した時点で、ひとり歩きしていくものといえ、今現在の「作品」と作曲家が世に出した「作品」は違うものになる。そうすると、仮に現在演奏されているテンポが作曲家が当初想定して書いたテンポと違っても、そもそも「作品」が違うのだから、それは「間違い」ということにはならない。単に作曲家はそう考えていたという事実があった、ということになる。
この発想に立つと、私たちのクラシック音楽に対する気分がずいぶん楽になるというか、自由になるように感じます。
また時間と空間を経る過程で変化して残ったものが古典だという立場に立つと、日本はクラシック音楽が生まれた場所から遠く離れていますが、日本には日本ならではの受け取り方があり、かつそれでよいということになる。
今まで教会に通うような生活をしていないと本当にクラシック音楽を理解できないのでは?みたいな引け目を心のどこかに感じていたことからも自由になる。
この他にも、作品を“あるがままに読む”ことなどできないという指摘など、作品とその受容ということを考えるヒントが詰まっている本です。
最後に私がこの本で一番目から鱗だった部分をご紹介します。
自然があってそれを写す芸術が生れる。美しい風景があるからこそ美しい山水画が描かれる。そういう考えが一般であるが、オスカー・ワイルドは逆のことを主張した。彼に言わせると、「芸術は自然にその当然あるべき場所を教えてやるための、われわれのたくましい抗議であり、われわれの雄々しい試みなんだ。自然に無限の多様性があるなどということは、まったくの神話だよ。多様性は自然自身の中には発見されない。それは自然を眺める人間の空想力、あるいは教育のある盲目の中にあるものなのだ」(吉田正俊訳『虚言の衰退』)となる。[異本の収斂]
私は今まで風景画にしても人物画にしても、実際に目に見える見え方と絵に描いてあるものが違うのはなぜか?と密かに疑問に思っていたのでした。この部分を読んだ後で美術館に行ってみたところ、空間がまるで違って見えました。ありがとう!
「思考の整理学」を紹介した過去記事
同じ演奏を聴いて人によって評価が分かれるのは何故か?
(2010.10.22)