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なぜオーケストラを聴くのか?事業仕分けと羽生善治から考える

私は将棋をやったことがないのですが、ひょんなきっかけで読んだ羽生善治の本が非常に面白かった。なぜなら、ティルソン・トーマス&サンフランシスコ交響楽団を通して、日頃クラシック音楽(特にオーケストラ)について考えていることとの共通点があまりにも多かったから。

その本は「決断力」。今本屋に行くと、「○○力」というタイトルの本が山積みになっていますが、それらとは言葉の重みが比較になりません。2005年初版の新書なので読んだ方も多いのではないでしょうか。

オーケストラとの共通点

私が反応したのは、以下のくだり(引用)。

「そんな馬鹿な」と思われることから創造は生まれる。どの世界でも、常識といわれていることを疑ってみることからアイディアや新しい考えも生まれるのではなかろうか。
「これが定跡だ」といわれているものが、必ずしもいつも正しいとはかぎらない。10年前、20年前に定跡といわれていたものが、実はまちがいだったということが多くある。定跡は否定され続けて今日に至ったとも言える。鵜呑みにしないで、もう一度自分で、自分の判断で考えてみることが、非常に大事である。
一つの場面についての知識や情報をたくさん持っていたとしても、アプローチの仕方とか、理解の仕方とかは深まらない。理解度が深まらないと、そこから新しい発想やアイディアも思い浮かばない。いろいろ試したり、実践してみることこそが、次のステップにつながっていくのである。
新しい戦型や指し手を探していくことは、新しい発見を探していくことである。自分の力で一から全部考えないといけない。だから、どうしても失敗することが多い
私は、どうなるかわからない混沌とした状況こそ、将棋の持っている面白さ、醍醐味の一つだと思っている。そこには、発見があり、何かを理解することができ、何か得るものがある。
何事であれ、一直線に進むものではない。私は、将棋を通して、そういう人間の本質に迫ることができればいいな、と思っている。

これらの言葉には、私がなぜティルソン・トーマス&サンフランシスコ交響楽団コンビを聴きに行くのか、なぜ日本の人々に彼らの音楽を知ってほしいと思っているかの理由が詰まっています。

ご存知のとおり、クラシック音楽は過去からの作品の系譜があり、20世紀の録音技術の発達により、演奏も先人の足跡が膨大に積み上がっている。そういう中で“今、同時代”の演奏を聴く価値はどこにあるのか?

私は、過去の遺産の上に新たな発見があること、今までとは違うパースペクティヴに身を置いて作品と対峙してみることなど、“新たな創造”の体験しかないと思います。

これは演奏の解釈や表現はもちろん、知らない作品や新しい作品を体験することもそうですし、曲の組み合わせによって体験することもできます。

そして“新たな創造”は、多くの試みやチャレンジの中からしか生み出されない。

MTTの録音なんかを聴くと、非常に完成されていますが、彼は普段のサンフランシスコやマイアミでは、「記録媒体に固定するまでもない」レベルの演奏を山のようにやっています。

もちろんそれらは試作とか中途半端な演奏ということではなく、「今回はこう考えた」という一つの成果なのですが、後世に残るようなものではなかったという意味。

それらを聴くと、当然「I don’t agree with youだわ~」と思うときもありますが、そういうことも含めて、様々なチャレンジや自分の常識の範囲にない作品を体験すること、いろいろある中に時として発見があったり、何かのヒントになったり、思いもよらないものと自分の中でつながったり、たまに「これはすごい!!」と思うような演奏が出てきたりすることが、たまらなく楽しい。多分サンフランシスコの人たちが、シンフォニーに行く理由もここにある。

オーケストラには地元密着とか、教育プログラム等いろいろありますが、本質的にはこの価値を出せるかがオーケストラの価値を左右すると私は思います。

ここでオーケストラの事業仕分けの話につながる

日本では、オーケストラの主軸となる活動への国からの助成金が、政府の事業仕分けの対象になりました。活動している方々にとっては死活問題であり、継続しているものを予測不能なかたちで打ち切ることは、いかなる理由であれ許される限度を超えていると思います。

ただ、音楽を享受する側の立場に立った場合、「助成金削減反対!」と叫ぶことは簡単ですが、「なぜ買ったオーケストラ(来日するオーケストラ)だけでなく、日本のオーケストラが必要なのか?」ということを今一度考える必要があるのではないでしょうか。

私は来日オーケストラというのは、どんな団体であっても“いいとこどりのつまみ食い”しか体験できないと思っています。ツアーの限られた公演ではリスクを取れないから、安全なプログラムでベストプラクティスな演奏しかできない。

そこでは、先のサンフランシスコ交響楽団の例で述べた“今、同時代”を聴くことの価値である、創造の現場でしか得られない様々な体験をすることはできないのです。

なぜなら、これには継続性と量が必要だから。こうした体験を提供できるのは、シーズンのラインナップを出せる日本のオーケストラだけなのです。

日本人がこのことの重要性に気づかず、これよりもヨーロッパこそが本場でホンモノという価値観に重きを置く限り、日本のオーケストラの本当の発展はないのではないかと私は思っています。

もちろん、現状では多くのオーケストラがひしめいていることもあり、日本のオーケストラの力が分散していること、日本の教育システムでは均質的な演奏家を生み出しがちなことから、聴き手に影響を与えるような同時代の価値をどれだけ提供できているかという問題はあります。

それでも、最終的に日本のオーケストラのゆくえを握っているのは、聴き手である私たちがどう考え、行動するか。日本はどうオーケストラ文化を発展させていくのか?「政府が何とかすべき」とゆだねるのではなく、一人ひとりが主体性を持つことだけが、道を拓くのだと思います。

(2009.12.16)