「尾高忠明新国立劇場オペラ部門の芸術監督へ」で思う
2010-2011シーズンから、尾高忠明氏が新国立劇場オペラ部門の芸術監督に就任することが発表されました。
このことに関して黙っていられなかったのでいくつか。
グランドデザインの年季
まず私は、尾高氏の指揮者としての実績には敬意を表しますが、歌劇場を人生の舞台に選らんで来なかった人に、いきなり委ねることになってしまった事態を黙って受け入れるしかない国民の無力感を感じざるにはいられません。
歌劇場に関わって来なければ、歌劇場のあり方に対する明確なグランドデザインも持ちあわせていないのではないでしょうか。リーダーにこういう劇場にしたいという明確なものがなければ、求心力も生まれないだろうし、グランドデザインのようなものは、たくさん見たり経験していく中で時間をかけてしか明確にならないと思うのです。
3年周期の謎
2点目は、3年間の任期は短かすぎて、それでは誰がやっても成果を出せないのではないかということ。芸術監督が代わるたびに路線も変わるのでは、観客もそれに振り回されているような印象を受けてしまいます。
若杉は体調が悪いのか?と心配してしまいます。
失うものがないことの意味
3点目は、欧米の歌劇場で実績を積んで元気がある日本人指揮者がたくさんいるのに、なぜ彼らにチャンスを与えずに無難な選択をするのか?ということ。
新国立劇場は、歌劇場としての歴史が浅いから、ウィーンやMETのような歴史を背負う重圧がない。いわば失うものがないと思うのです。
だから若手を起用するとか、歴史があるところではリスクがあって踏み切れないような思い切ったことができる立場にあると思うし、それこそが新国立劇場のアドバンテージなのではないでしょうか。
それなのにその利点を活かさず、歴史あるところよりも保守。
仮にチャレンジして失敗したとして、今までと比べていかほどの違いがあるのか?大して変わらないのだから、やってみればいいのにと思います。
なぜ話題にならない?
そして最後は強調したいのですが、このニュースに反応している人があまりにも少ない。ブログ検索をしてもほんの数人、しかもニュースをそのまま載せているようなブログがほとんど。
オペラハウスの人事って、ヨーロッパでもアメリカでも地元の大きな関心事だし、みんなあーだこーだ言っては盛り上がっている。関心も持たれていないということを重大視すべきだと思います。
私は新国立劇場ができたとき本当にうれしかった。最初は全部のオペラ作品を観に行こうと真剣に思っていました(3つめくらいで、期待とのギャップにリタイヤした)。
だから、新国立劇場の文化利権みたいな姿(外からはそう見える)を見るのは悲しい。そうなるしか仕方がない国のシステムだというのなら、もう税金使ってオペラ制作するのはやめて、その分民間でがんばっているところに配分していただきたいです。
なぜかイヤシロチ論を思い出す
余談になりますが、先日サンフランシスコへ行ってふと思ったのですが、世界中オペラハウスって、広場に面していたり、通りがひらけるような場所、いわゆる船井幸雄氏言うところの「イヤシロチ」感が漂うところに立地していると思いませんか?(ボローニャとか、フェニーチェ、コヴェント・ガーデンあたりはちょっとごちゃっとしてるけど)
その点、新国立劇場は高速道路の高架のすぐそばで、あそこへ行っても全くイヤシロチ感がない。
ひょっとしてすべての原因はこれだったりして!?
(2008.7.2)