船旅の長所を体感~南太平洋編~
ぱしふぃっくびいなすの世界一周クルーズ2015はペルーを出港すると、後は南太平洋の島々にポツポツと寄港し、日本へ戻る航路だった。一つひとつの島は旅のハイライトになるような場所ではなかったため、出かける前は「消化試合」のように思っていた。
ところが蓋を開けてみると、有名な寄港地は、船旅の朝入港して夕方~夜に出港するパターンではやりたいことをやる十分な時間がなく、どうしても物足りなさが残ってしまう。これに対して、南太平洋の島々はそもそも飛行機でのアクセスが悪く、船だからこそ訪れる機会を得られたような場所であるのに加え、1日寄港して次へ移動するパターンがちょうど良く感じられる大きさなのであった。
という訳で、振り返ってみれば、(別クルーズの南極を除いて)世界一周クルーズの中で南太平洋の島々めぐりが一番船旅の長所を体感できて記憶に残る結果になった。
2015年3月16日、ペルーを出港してから4日目。海が明るく輝いていた。海の表情は毎日刻々と変化する。
イースター島
3月18日、イースター島へ寄港する日。前日から波が高かった。当初、アナケナ・ビーチの沖に投錨し、通船(テンダーボート)に乗って上陸する予定であった。ところが周辺は波が高くて停泊できず、ハンガロア・ロアの沖に停泊することに変更された。さらにテンダーボートが着岸できる水深の岸壁は他の客船が利用することになっていたため、ぱしふぃっくびいなすの乗客は7名乗りの現地の小型ボートに乗って上陸することに。この小型ボート8隻で輸送をやりくりするために、なんと上陸時間は一人2時間と決められ、モアイ像を巡るオプショナルツアーも中止になってしまった!イースター島を楽しみにしていた乗客は多く、この変更で船内は騒然となった。
地元のおじさんが操縦するボートで上陸。水しぶきが上がる。
モアイの材料となった石を切り出したラノ・ララクや15体のモアイが並ぶアフ・トンガリキはハンガロア村から20kmくらい離れていて遠い。行って帰って来ることになっても一目でいいから見たいとタクシーをチャーターする人もいたけれど、私たちは港に近いタハイのモアイを見てのんびり散策した。
5体のモアイが並ぶアフ・バイ・ウリ。これだけでもモアイの不思議さは伝わってきた。保存のため監視が厳しく、台座に近づくと注意される。
目が復元されているアフ・コテリク。モアイの謎に思いを馳せる。
モアイの隣に見える客船は初代飛鳥。2006年からドイツの船会社によって「アマデア」という名前で運航されている。ぱしふぃっくびいなすの乗客の中には初代飛鳥にクルーズの楽しさを教えてもらったという人も結構いて、ここで遭遇したことに感慨もひとしおな様子であった。
モアイ巡りを満喫できなかったのはとても悔しく後ろ髪を引かれる思いでイースター島を後にしたが、自然条件に左右される割合が高いのは、船旅のどうしようもない性質なのであった。
ライアテア島
ライアテア島って特に見るべきものもなく、着いたら即タヒチに移動した方が良いのではないかなどと画策していたのだが、ところがどっこい、鮮やかな記憶を残す訪問地となった。
3月25日、船は静かに環礁が切れた場所からラグーンに入り、ライアテア島に近づいて行く。デッキのすぐ近くにポリネシアンな森が見える。初めて見るこれぞ南太平洋という光景に興奮した。
ウツロアの港では民族衣装を着た人々の出迎えがあった。
眺望が開けているタピオイの丘に登る。港から小一時間くらいのちょっとしたハイキング。途中牛や馬が放たれている。
丘からの眺め。ラグーンの青色の美しさにただただ魅了されるばかり。ライアテア島の3km先にはバニラの産地として有名なタハア島がある。
北西方向に目を移すと空港の滑走路が見える。右側の島がタハア島で左の遠方はボラボラ島。
ライアテア島の景色が思い出深いものとなった理由の一つは、自分で歩いて丘に登ったからだと思う。やっぱりどんなに失敗や非効率な部分があったとしても、連れて行ってもらうよりも自分で動いた方が楽しい。
タヒチ/モーレア島
3月26日、船がタヒチ島に近づく。これまでに訪れた島に比べ、だいぶ街が大きい。
ぱしふぃっくびいなすはタヒチ島のパペーテに1晩停泊するので、私たちはモーレア島のヒルトンに1泊する計画を立てた。島に着いてすぐにフェリーに乗り、モーレア島へ移動した。
ホテルのビーチに面したカフェ・レストランでランチ。ポワソン・クリュをオーダーした。セビーチェみたいな料理だが、ココナッツが入っているところが特徴で、ごはんが添えられている。やさしくヘルシーな味。モーレア島はパイナップルの産地なのだが、味の輪郭がはっきりしているのにくどくない。ジュースが感動的においしかった。
お部屋の花のしつらえ。
クルーズの旅では、寄港地毎の日帰りオプショナルツアーだけでなく、一旦下船してホテルに宿泊しながら旅をしてまた船に戻ってくるオーバーランドツアーがある。船会社が提案するオーバーランドツアーはとても魅力的なのだが、いかんせん高齢で体力に自信がない方であっても安心して至れり尽くせりの旅ができるというコンセプトで組まれているため価格が非常に高い(この他に、個別のアレンジを船の旅行会社に依頼することもできる)。だから私たちは行きたい場所を自分で手配して周る自力オーバーランドツアーを当初はいくつも計画していた。ところが世界2.5周プロジェクトのうち、世界一周航空券を使った2回目の費用が当初の予算をオーバー。結局、クルーズの方は船の生活を体験することに重きを置く方針に転換し、自力ツアーは見送った。そして唯一の外泊となったのが、このモーレア島だったのだ。
夕日のビーチにて。
ディナーのデザートに「タハア産バニラのショートブレッド」とあったのでオーダー。有名なタハア産バニラの風味を試してみたかったのだ。しかし、添えられている柚子クリームの味が強すぎてバニラはよくわからなかった。トホホ、、、
翌朝の海。美しいラグーンは魚が泳いでいる。カヌーにトライしたかったが、夫の反対によってペダルで漕ぐボートに乗った。珊瑚礁を傷つけてしまいそうでヒチヒヤした。
プールで泳いで気分爽快。
大学の卒業旅行でパリを訪れ、オルセー美術館でゴーギャンの絵を見たときから、タヒチは憧れの場所だった。以来旅行雑誌のグラビア写真を眺めては想像を膨らませてきたが、実際に訪れてみると予想よりも洗練されたリゾート的ではなく、素朴な自然のままを楽しむ要素の方がずっと大きい場所だった。
スパでマッサージを体験した。タヒチアンなアロマオイルを選べる。こちらの施術はローカルではなく、今どきのラグジュアリーなリゾートが提供するスパの基準だった。
1泊のステイはあっという間に過ぎた。タヒチ島へ戻るフェリーからモーレア島を振り返った眺め。海と山に囲まれた自然が魅力の島だった。
最終帰船時間が17時だったため、夕暮れ時からパペーテ港に並ぶルロット(屋台)でガレット(ソバ粉でつくるクレープのように薄く焼いたスナック)を試すことはできなかった。残念。
ウポル島
4月1日、サモア独立国のウポル島に寄港。のんびりとした首都アピアは人口32000人ほど。真ん中に見える建物は政府庁舎。
ポップなバスがたくさん走っている。TOYOTAとあるが本当なのだろうか?
魚市場にはカツオがずらっと並んでいたが、見たことない熱帯魚みたいな魚も。木の葉のウチワで扇いでハエを掃っていたのが印象的。
中央市場へ向かって歩いている途中、学校の講堂でイベントをやっているところに遭遇した。宗教的な題材の歌と劇。保護者がたくさん観に来ていて、私たちにも椅子をすすめてくれた。座ってしばし観劇。グループ毎に出し物が違い、この日のために練習してきたことが伝わってきた。
中央市場に並ぶタロイモ。迫力がある。中学のときの社会科の授業でどこかの国の産物として「タロイモ」が出て来たような気がする。その時どんなものなのだろう?と思った疑問がここで解けた。今だったら学校でも生徒がタブレットを与えられているから、ちゃちゃっと検索して「ふうーん」となるのだろうが。
観光案内所の敷地で音楽と踊りのパフォーマンスがあった。日本国内のインバウンド観光のニュースでもよく見るけれど、客船が寄港すると地元の方々が芸能などで歓迎してくれる。お客の立場になってみると、やはり嬉しい。
伝統料理ウムもふるまわれた。バナナの葉でくるんだ食材を焼いた石の熱によって時間をかけて蒸し焼きにした料理。中身はタロイモ、魚、緑の葉物が入っていてココナッツ味。手で食べる。これが感動的においしかった。じんわりと加熱された料理特有の素朴でやさしい味わいで、タロイモは回りが香ばしく中はホクホク、里芋にちょっと似ているけれど粘りはない。
カトリック聖堂のムリバイ教会。街の象徴的な建物。
天井を覆う木のデザインが素晴らしい。ちょうどお昼のミサの時間帯だったが、人々が実に敬虔だった。
ランドマークの時計台。
民家がある場所では黒光りした豚が普通に歩いていた。
タラワ環礁
4月5日キリバス共和国、タラワ環礁に寄港。ベシオ港では雨の中歓迎の踊りがあった。
タラワは太平洋戦争の激戦地。1943年11月のタラワの戦いでは日本軍約4600名が3日間の激戦の末に玉砕した。遺族によって建てられた日本人兵士の慰霊碑がある。
隣には日本人とともに戦った朝鮮兵士の慰霊碑も建てられている。
テマキン岬。朽ちた戦争の跡が環礁内のいろんな場所に残っている。
乗り合いトラックで移動する人々を多く見た。
3月に大きな台風の被害に遭い、その影響がまだ残っている時期であった。
日本人が支援した小学校。
この日はイースターの祝日。キリバス国民は敬虔なクリスチャンが多いが、司祭の説教を聴きに集まる人々の熱気に圧倒された。
南太平洋の島々を巡って来て、人々の信仰心が篤いことはとても印象に残ったことの一つである。
日本のODAによって2014年に完成した岸壁。海外青年協力隊で日本から派遣されている若者が集まってくれたのだが、医療や技術の分野でがんばっている姿がさわやかだった。
出港後、戦死した方への慰霊祭がデッキで行われた。「海ゆかば」が流れ汽笛を鳴らして祈りを捧げ、お花や酒を手向ける。乗客の多くが戦争を体験した世代であることもあり、非常に皆の思いがこもったセレモニーとなった。戦後70年の節目の年に太平洋戦争の激戦地を訪れ、あらためて戦争について考える貴重な機会を得ることができた。
こうして巡った南太平洋の島々を後にして、船は日本への帰路についた。船の速度というのは時速30kmくらいで、飛行機だったら十数時間で移動できるところを2週間近くかけて移動したりする。そんなスピードで進んでいても世界一周して戻って来たという事実に、千里の道も一歩からということが本当なのだと身を持って教えられたような気がした。
(2015.3.13~4.11)